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自分の責任ではない格差

 橘玲氏の著作を読ンで思うのだが、彼は「努力する余地」を考慮しきれていないと思う。
 どンなに才能があっても、「玉磨かざれば光なし」なのだ。
 まァ、なンでも磨けば良いというものではないし、磨きようを間違えたら光りようがないわけだが。
(知能は確かに遺伝するのだろう。 だからといって、努力する才能も知能の中に含まれるとは、俺ちゃンには思えない。 また、「努力する意思の醸成」に対する教育効果はあると思うし、それはコンテンツを詰め込ンだ場合と違って、消失しにくい効果ではないだろうか。 橘氏の論法では、全ての努力や教育が無駄であるように感じられるが、極端過ぎではないかと思う)

 現実的な問題、努力によって克服したり、向上できる余地はある。 ただ、それが世間様でどれくらい評価されるか、は未知数だ。
 恐ろしいのは、そういった努力が一切認められないというか、はじめから枠外になってしまっている、という制度だ。 門前払いってやつ。 これでは如何に努力してもはじまらない、それどころか努力する事すら認められていない、ということになる。
 こういった身分制度は撤廃されてしかるべきだろうと思う。 少なくとも、チャンスは均等であるべきだと思う。
 勿論、チャンスとは何か、均等とはどういう意味なのか、という議論は尽きない。
 チャンスは、たとえば、義務教育なのか、受験資格なのか。 教育だとしたら、それは単に席が用意されるというだけなのか。 その実費負担はどうなるのか。
 そして「均等」というと、その意味を都合良く解釈して、極端な逆ハンデによって有利になろうとする連中が必ず出てくる。 均等の意味が無いではないか。
 さらにお約束だが、外国人の分際で、他所の国に入って来て、ギャーギャー喚き立てる連中には、チャンス等を与える必要はない。 外国人なンだから、根本的に枠外だ。

 …このような議論がなされる以前の、上記で書いた「枠外」の状況がまだ沢山、地球上には存在する。
 悲しいニュースであるが、インドでカーストに基づいた殺人事件があったという報道がなされた。
 カースト制度は、古くにエステイブリッシュされた制度であるから、経験に基づいた、なにがしかの合理的な、客観的妥当性のある理由が存在するのかもしれない。
 しかし、次に掲載する図をネットで見つけて、こりゃ違うだろうな、と思った。
 ズバリ、既得権益だ。 既得権益を守る構図なのだ。 それをかたくなに守っているのだ。

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 この図には記されていないが、他の資料をあたると;
 ・上位カーストは、30~40%。
 ・下位カーストは40~50%。
 ・ダリットという不可触民層は、16%だが、なンと2億人居るそうだ。

 身分別人口調査を拒否しているとかで、正確な割合は判らないが、半分に満たない上位カーストが有利なようになっているということで間違いないようだ。
(追記:少し調べると、いわゆる現代のIT関連の仕事は、カーストに入っていないため、様々な身分の人が就業しているそうだ。 これは良い事だよね)

 一部は日本の江戸時代と似ていて、「エタ非人」といわれる人達を設定しているわけだが、極端なヒエラルキーになっていて、その数が多い。  現在の日本の総人口より多い人達が、生まれつき門前払いされているのだ。
 これは残念で勿体ないことだ。 自分の責任ではない格差により、門戸を閉ざされてしまっている。
 何世代も最下層に凝縮させられているので、卑屈な、どうしようもない思考になってしまっているかもしれない(とはいえ2億人だよな…凝縮すンのかな…)。

 上に書いた通り、バラモン、クシャトリアが社会を支配しており、様々な特権があるのだろう。 そしてこういった人達が落として行くお金が、トリクル理論というやつで下層に流れて、社会構造が成立している、ということなのだろう。
 したがって、差別する事(=階層社会である事)で、社会の規律が保たれているなら、差別制度を壊す事は、インドの社会基盤を揺るがす事になり、簡単には解消できないだろう。

#日本も、今でも根本的に変わりはないかもしれない。 平民が金持ちになる事を嫌っているというか、制限しているように感じる。

 こうしてみると、現在日本はまだまだ幸せだ。 たしかに、親の経済状態が子供の教育水準に影響するという事があきらかになって来ているが、それでも、カーストよりはマシではないだろうか。