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探すのも簡単じゃないよ、でも探すだけじゃ商売にならないよ

敷津林傑

 読売新聞のサイトで知った人物。
 一体何者なのか? 100年前に、現代日本の状況を驚くほど正確に予想している。

 記事がなくなってしまうとイヤなので、せめて文章だけでも転記しておこう。

2020年の日本、100年前にここまで見通した男

     東京五輪が開催される2020年の日本の姿は? わずか2年先を見通すのも簡単ではないのに、100年後を予想するという試みがあった。今から98年前、大正時代の雑誌の企画に文化人や学者ら総勢370人が見解を寄せた。「火星旅行ができる」「日本の人口は78億人」などと多くの人々が夢物語を描く中、国民の平均寿命や、運輸・通信技術の発達など、現代の日本の姿を鋭く見通した男がいた。一体、何者なのか。

「飛行機は富士山経由で火星へ」

雑誌「日本及日本人」の表紙

 企画は「百年後の日本」と題し、1920年(大正9年)発行の雑誌「日本及日本人」の春季臨時増刊号に掲載された。

 見解を寄せたのは約370人。評論家などとして活躍した三宅雪嶺が発行人を務めた雑誌だけに、著名な大学教授や小説家、宗教関係者らが名を連ねたが、「神ではないからわからない」「想像できない」などの声も多かった。100年後の予想は、当時の知識人たちにとっても難題であったことがうかがえる。

 夢を抱いて大胆な予想をした人も、もちろんいた。日刊紙「萬朝報」の記者だった石川半山は、「世界が統一され、中央政府ができる。日本人は78億人に」「火星との交通が開けて、富士山は火星に向かう飛行機の停留場となる」といった趣旨の文章を寄せた。

 石川は、明治期に「ハイカラ」という言葉を生んだ人物だった。この事実を明らかにした日本語学者で梅花女子大(大阪府)教授の米川明彦さん(62)は、「(石川は)政治に強い関心があったので『世界統一』などといった予想をしたのでしょう」とした上で、こんなエピソードを明かしてくれた。

 企画が行われた20年に大正期最大のベストセラー「死線を越えて」を書いた作家・社会運動家賀川豊彦が、その2年後に発表した「空中征服」の中で、光線列車を使って火星に移住する話を書いていたというのだ。「2人が意識し合っていたのか、それとも、この時期に火星に関する何か話題があったのか。想像が膨らんで面白いですね」と米川さんは話した。

女性の社会進出を予想

米国へ行く市川房枝(左手前)と、見送りの平塚らいてう(右)(1921年7月30日の報知新聞の紙面から)

 20年4月、総理大臣は「平民宰相」の異名をとった原敬が務めていた。当時、選挙権は「直接国税3円以上を納める25歳以上の男子」に限られていて、普通選挙の実施を求める国民的な運動が起きていた。

 1か月前の同年3月には、女性の政治的権利獲得を目指して、平塚らいてう市川房枝らが創立した新婦人協会の発会式が行われた。

 こうした時代背景を反映してだろうか、100年後の日本に「女子の大臣もあれば大学総長もある」と予想した人がいた。文芸評論家の石橋忍月だ。石橋は森鴎外と「舞姫論争」を繰り広げる一方で、裁判官や弁護士などとしても活躍した人物だった。

 企画から四半世紀後、第二次世界大戦を経て日本社会は激変した。

 終戦を迎えた45年の12月、衆議院議員選挙法が改正され、女性参政権が実現。翌46年4月の総選挙で39人の女性議員が当選した。60年7月には中山マサさんが厚生大臣になり、初の女性大臣が誕生した。大学総長はといえば、法政大学で田中優子さんが2014年、東京六大学で初の女性総長となった。石橋の予想は100年を待たずに現実のものとなったのである。

人口規模、平均寿命で近似値を予想

1920年4月の上野公園の様子(読売新聞の紙面から)

 他にも「服は男女とも9割が洋服に」「都市ではアパート式建物が激増する」など、現代社会を彷彿とさせる予想をした人たちはいた。しかし、何よりも筆者の目を釘付けにしたのは、“敷津林傑”という人の予想だった。

 敷津は、約490文字の短文の中に、約10項目にわたって予想を羅列していた。日本の領土がフィリピンや現在のロシアの一部まで広がるなど、現実とは大きく違っている部分もあるが、特筆すべきは、具体的な数字を挙げて将来像を描こうとした点だ。しかも、そのいくつかは、ほぼ100年後に当たる現代の数字に近いのだ。

 例えば、国民の平均寿命。厚生労働省によると、1921~25年にかけて日本人の平均寿命について調査した記録では、男性が42.06歳、女性が43.20歳となっていた。こうした時代に敷津は、衛生状態がよくなることなどで100年後の日本人は「80~90歳まで生きることができるようになる」と予想した。

 2017年7月に同省が発表した16年の日本人の平均寿命は、男性が80.98歳、女性が87.14歳で、ほぼ的中している。

 人口についても、おおよその規模を見通していた。

 1920年の日本の人口は、約5600万人。敷津は100年後の人口を「1億8000万人」と予想した。総務省によれば、17年12月現在(概算値)で1億2670万人。的中はしそうにないが、「78億人」などの数字に比べれば、大まかな数字をつかんでいたと言えるだろう。
雑誌挿絵で書かれた東京都千代田区神田川にかかる万世橋の予想図(左)。空には「巡査用飛行機」が飛んでいる/右は現在の万世橋付近

 敷津の予想は、航空機1機当たりの旅客数にまで及んでいた。敷津はそれを「200人乗りから600人乗りになる」と見込んだ。

 エアバス・ジャパン(東京都港区)によると、現在、国内の航空会社で最も使われている同社の機体は「A320」で乗客は100~200人。最も収容人数の多い「A380」は500人前後で運用されているという(全席エコノミーなら853人分の座席設置が可能)。

 驚くべきは、数の的確さだけではない。世界初の旅客機が飛んだのは1919年。第一次世界大戦(14~18年)の直後で、航空機は主に武力として注目され、「乗客を運ぶ」という用途自体がまだ定着していなかったのだ。

 「百年後の日本」にも航空機に関する予想は多く寄せられたが、そのほとんどは「警察が使う」「郵便を運ぶようになる」などの内容だった。敷津の予想も「ロンドンまで2週間で往復」などと飛行時間は的外れであったが、旅客機が普及するという考えそのものが、多くの人たちの頭には浮かばなかったようなのだ。
エアバス社の「A380」の機体(2014年撮影)

  敷津はほかにも、興味深い予想を示している。

 「(燃料としての)石炭と薪は不用となり、太陽の熱を利用する」――。こちらはまだ道半ばだが、再利用可能エネルギーへの転換が進められている。資源エネルギー庁によると、1次エネルギー供給のうち、再生可能エネルギー(水力を除く)は全体の4.3%(2016年度速報値)で、20年にはとても間に合いそうもないが、いずれ現実となる日が来る可能性は高い。

携帯電話の登場を予想?

1920年4月の電話交換手の様子(読売新聞の紙面から)

 科学技術の進歩に関する予想の中で、筆者が最も注目したのは、次の一文だ。 

 「郵便と電信はなくなり、皆電波にて通信す」

 当時、連絡手段として主流であった「郵便と電信(電報)」に代わって、携帯電話やスマートフォンなどの電波による無線通信が主流になる現代を予知していたかのように受け取れる。

 NTT技術史料館(東京都武蔵野市)によると、携帯電話同士で通話する場合にも、最寄りの基地局までは電波を使用しているが、基地局間は有線で通信しており、無線通信だけで通話しているわけではないという。

 また、敷津は「通話」とは書いていないので、この一文だけで「携帯電話を予想した」とまでは言い切れない。ただ、当時の通信事情を考えると、この予想にもかなりの先見の明があったといえるのだ。

無線通信が一般化するのは80年後

 日本で初めて電話が開通したのは1890年。加入者数は東京155、横浜42で、多くは政府機関、銀行、新聞社などだった。当時の電話は壁掛け式で、設置場所から有線で電話交換局につながり、そこで電話口に出た「交換手」に相手側の電話番号を告げて接続してもらう方式だった。つまり、当時の電話は「有線」どころか、「有人」でようやく成立する通信手段だったのだ。

 電波による無線通信の技術は1920年には実現していたが、船舶電話などの特殊な用途に限られていた。
1985年に登場したショルダーフォン(NTT技術史料館提供)

 後の携帯電話につながる自動車電話のサービスが開始されたのは1979年(総務省「情報通信白書」による)。携帯電話が本格的に普及し始めたのは96年だった。

 この頃が、固定電話普及のピークでもあり、以降、携帯電話は年間約1000万台のペースで急増し、2000年に固定電話の数を逆転した。この時期に、事実上の「電波」による通信が「皆」にとって身近になったと考えれば、「郵便と電信」はなくなってこそいないものの、敷津の目には、やはり先の世が正しく映っていたような気がしてならない。

 携帯電話の普及につながる自動車電話についての研究で、日本人初の「工学分野のノーベル賞」と言われる「チャールズ・スターク・ドレイパー賞」を受賞した金沢工業大学名誉教授の奥村善久さん(91)に、敷津の予想をどう思うか尋ねてみた。

 奥村さんは「当時も専門家たちの間で無線通信の有効性は知られていたので、予想はできたと思う」とする一方、「ただ、彼が(無線通信の)専門家でない素人であったら話は別。素晴らしい予想で興味深い」と話した。

 問題は、敷津が一体、何者だったのかだ。謎の男「敷津林傑」という人物に迫ってみた。

開業医だった敷津

敷津林傑(米友協会会史から 横須賀市自然・人文博物館提供)

 敷津が予想をつづった「日本及日本人」には、その肩書までは掲載されていなかった。筆者が名前を手がかりに資料を探したところ、渋沢栄一記念財団(東京都北区)の「渋沢栄一伝記資料」に名前の記載があることがわかり、そこから「米友協会」という組織の会員であったことがわかった。

 当時、アメリカに留学や滞在した経験を持ち、その後に政財界などで活躍した人が集まり、交流を深めた団体だ。横須賀市にあるペリー上陸記念碑の建立に尽力するなどの足跡を残している。

 その一員であったという事実から、アメリカで見聞を広め、国際的な視野を持っていた人物であったことがうかがえる。
ペリー上陸記念碑(横須賀市久里浜

 職業が医師であったこともわかった。「経済時報」という雑誌に移民に関する論文を寄せており、その時の肩書から判明した。同じ雑誌に「敷津医院」という「生殖器病及び外来専門」の広告が掲載されていた。当時の紳士録などから、医院は敷津が開業したもので、場所が東京都千代田区富士見、現在のKADOKAWAの本社の近くであったこともわかった。

 その近隣に住んでいる人や、日本泌尿器科学会などに取材したが、それ以上のことはわからなかった。また、「敷津」という珍しい姓が大分県玖珠町に数軒あることを知り、同町の教育委員会を通じて調べてもらったが、林傑や子孫について知る人はいなかった。

 敷津の自宅兼医院の周辺は、東京大空襲の被害を受けていた。空襲犠牲者に関する記録にも当たったが、情報は得られなかった。

 この時だけは、気落ちするというより、少々ホッとする思いだった。

 100年先の日本社会を見通した敷津の知見に、日米友好活動などを通じて得たアメリカの社会や産業、科学技術などの情報が役立ったであろうことは想像に難くない。その敷津が、アメリカによる空襲に巻き込まれたとは考えたくなかった。

 敷津を追いかける取材は、今後も続けていく。