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ホー・チ・ミンの話

ホー・チ・ミンは台湾人だったのではないか、という学説をフと思い出して、過去の記事を見つけた、そのメモ。
台湾の学者が言い出した事なのだが、「韓国人みたいな事を云うのはヤメよう」という声が中国国内から上がっているのが何ともおかしい。
何と申すのか、この時代の、このテの人は、謎が多い人生なので、結果的に、複数の人でプロジェクト「ホー・チ・ミン」をやった、ということは考えられるよね。

以下、記事の引用。

  中国のニュースサイト、環球網が22日、台湾には「ベトナム建国の父とされるホーチミン大統領は台湾出身だった」との説があると伝えた。同記事に対する書き込みには「韓国に毒された」、「やめとけよ。だんだん韓国人に似てきたぜ」などの意見が多く寄せられた。
「胡愛国」時代にすり替えはあったのか
  ベトナムは中国文化の影響を強く受け、人名も中国風のものが一般的。ホーチミンの漢字表記は胡志明。ただし、フランスの植民地時代、中国の影響を払拭する意図で漢字使用はやめ、現在に至っている。
  ホーチミン台湾人説を出したのは、台湾人学者の胡俊熊氏。2008年11月に出版した『ホーチミン出生考』で、国際共産主義陣営が革命家の伝説を作るために、人物を差し替えたと主張した。

  ホーチミンはフランスからの独立運動を推進するに当たり、阮必成、阮愛国、阿三、胡光、陳民先、李瑞、宋文など、さまざまな氏名を使った。胡俊熊氏は、「阮愛国は1932年に死亡し、約10年後に別の人物が阮愛国として、独立・革命運動を進めるようになった」と主張した。

病死説も出た空白の10年間

  阮愛国は1931年6月に香港で逮捕され、32年に釈放されてシンガポールに渡った。シンガポールでもすぐに逮捕され、香港に送り返された。その後、阮愛国は姿を消し、「病死説」も出た。しかし、1941年6月6日になり「全国同胞に呼びかける書」を発表し、ベトナムの独立・革命の舞台に姿を再びあらわした。

  姿を消していた期間、ホーチミンソ連にいたとされるが、胡俊熊氏は「影響力が大きかった阮愛国の名を使うため、別人物を“接ぎ木”した」と主張した。

  さらに、ホーチミンは中国語を使いこなすことができたが、胡俊熊氏は「ベトナム出身にしては、中国語のレベルが高すぎる」と指摘。1929年から32年まで上海に潜伏した時にともに活動した同志だった客家系台湾人の胡集璋が、胡愛国の死亡後、胡愛国になりかわったと主張した。

  しかし、当時は革命家がかなり長期にわたって姿を消すことは珍しくなかった。胡俊熊氏は、中国語でホーチミンが著した「獄中日記」に客家系中国人が使う語彙(ごい)が見られることを「すでに胡愛国に入れ替わった客家系台湾人の胡集璋の著作である証拠」としたが、「問題の語彙はベトナム人の中国語でもよくある言葉で、証拠にはならない」などの反論があり、胡俊熊氏の主張は、台湾でも広く受け入れられているわけではない。胡愛国はもともと、中国語を使いこなしていたとの証拠もあるという。

なぜか多い、韓国非難の書き込み
  環球網が同記事について設けた書き込み欄では「韓国に毒された」、「違うよ、韓国人だよ」、「台湾と韓国の論争になるな」、「台湾人もやめとけよ。だんだん韓国人に似てきたぜ」などの意見が目立つ。
  また、「ベトナムは中国の属国だっからどうでもよい」、「ベトナム人の祖先は中国人だ」、「安南(ベトナム中部以北の中国語古地名)は昔から中国の一部分だ」などの主張がある。
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◆解説◆
中国人がベトナムを「もとは中国の一部だった」などとする大き理由は、ベトナムが清末までの長期にわたり、中国の「柵封国」だったからだ。「柵封」とは、中国の皇帝と形式的な君臣関係を結ぶことを指す。
  中国には「中華の支配者は、全世界の支配者」とのイデオロギーがあったため、実際には統治が及ばない周辺地域の支配者と「柵封関係」を結び、正統王朝としてのイデオロギー上の整合性を保とうとした。

  一方、「柵封関係」により「臣」となる周辺地域の支配者にとっては、中国の「お墨つき」により、政権の権威づけができた。また、歴史上の早い時期には、中国との「朝貢貿易」で得られる利益も大きかった。柵封を受けた「臣」は、中国皇帝に対して「朝貢」する義務があり、朝貢の際には大量の「貢物」を持参した。中国側は見返りとして「下賜品」を渡した。

  実質的に貿易機能を持つ「取り引き」だったが、「君」としての面子(メンツ)がある中国側は、「貢物」の価値を大幅に上回る「下賜品」を贈ることが一般的で、周辺地域の支配者にとっては、経済的な利益を上げ、地域における地位を強化することができた。
  歴史的に中国の「柵封国」であった場合でも、中国による政治的影響力の行使は地域や時代により違いがある。そのため、過去にさかのぼって現代的な意味で「独立していたか、中国の一部だったか」を一律に論じることには、あまり意味がない。

  中国最後の王朝である清代には、日本を除く東アジア、東南アジアのすべての国が、柵封体制に組み込まれた。清末になり、フランスとの戦争(清仏戦争)で清が敗れた結果、ベトナムはフランス植民地となり、柵封体制から実質的に離脱した。1895年の日清戦争では、敗れた清が下関条約で朝鮮が独立国であることを認めたため、最後の柵封国だった朝鮮も離脱。前近代的な柵封体制は姿を消した。(編集担当:如月隼人)